「死ぬ」の価値
マルが寝ようとして、布団にもぐりこんだとき、2階にある私の部屋に、階下からばたばたした音と、大きな声がして、私は驚いて起き上がった。
ジーンズをはいて上着をきて下に降りると、10こ歳のはなれた、元看護師で結婚して家を出て行った姉がなにかをわめいていた。両親がまあまあとなだめていた。
「どしたのこんな時間に」私がきくと、姉は興奮気味に事情を話した。
友達と電話をしていた。その友達は夫が浮気しているのでは、と疑っていた。はじめはそんな普通の主婦の会話だった。だが、時間が経つにつれ、その夫は帰ってこない、疑惑は深まるし、義兄(姉の旦那)はまじめな人なので電話している姉の代わりに部屋の掃除なんか始めた。その友人にはそれがにわかには信じられないことらしく、驚き、自分を嘆き、しまいには「もう死にたい」と言い出して電話口で泣いてわめいて電話を切ったという。
その友人の家は、正確にはわからないがこの実家の近くで、だから一緒に探して欲しい、そんな内容だった。
泣きながら「死ぬ」って人は生きたいから泣くもんだ、だから平気だ、両親はそうさとした。でも私はいまの論点がそこではないと考えていた。
姉にとって、いまできることをしないと、気がすまないし、あとにひきずることなのだ。その友人の家を見つけることより、「探した」という実感が必要なのだ。
また、浮気相手を別れさせることも考えたほうがいいだろう。
プロの別れさせ屋に頼むのも手だ。
そうでもしないと収まりがつかない。
私は姉より早く家を出て、「その人の苗字は?」と姉に聞いた。姉もすぐに家を出て、近所を走り回った。
2時間ほど探しただろうか、姉の携帯に電話がきた。その友人だった。しばらく話して、姉は今日はもう遅いから、と電話を切った。
「だいじょうぶ?」私は姉にきいた。ふうと息をして、家に足を向けながら、姉が言った。
「自分の幸せは、案外自分にはわかんないのかもね」